『 子どもごころと秋の空 』のお話

園長: すぎもと かずひさ (2019年10月31日

『 子どもごころと秋の空 』のお話

 

理事長 すぎもと かずひさ

 

50㎝ほどの「水たまり川」に三輪車がスタックしている。前輪が水に浸かったその周辺で数名の2歳児さんが右往左往している。近づいてよく見ると困ったふうでもない。むしろ自分たちがつくり出した状況を楽しんでいる風情である。

一人が15㎝角、長さ30㎝くらいの木材を運んできて、「水たまり川」の真ん中に「そっと」置いた。ものの体積と水撥ねの関係を彼に学ばせてくれたこれまでの体験が嬉しい。どうやら、投入した木材を橋にして向こう岸へ渡るつもりらしい。泥水で木材の下半分は見えない。見えないから面白い。こっち側と向こう岸で見守る仲間も興味津々である。

注目の中、いよいよ挑戦が始まった。片足をかける。川底がぬかるんでいるせいで体重を乗せるたびに木材がぐらつく。そのスリルを味わいながら腰をかがめ、全身でバランスを取っている。危なっかしい。真剣さが伝わってくる。頑張れ。思わず応援する仲間。さっきの三輪車のハンドルを手がかりに巧みに、川への落下を防いでいる。ついに両足をかける瞬間がきた。そーっとである。

「あ~っ!」仲間が叫ぶ。傾く木材。両足を乗せた途端、全体重に耐えかねてさらに斜めになった。ギリギリのところで静止。何とか持ちこたえた木材を渡り、彼は無事に向こう岸へとたどり着いた。

ところが、これで終わらなかった。彼は、同じように三輪車の前輪を川に沈めて見ていた隣の友達に駆け寄り、その前輪を力任せに沈め始めたのである。咄嗟に友達も自分の三輪車を降り、阿吽の呼吸で協力し始める。二人の力に沈みこむ前輪。さっきまで水にはまらないようにしていたことの意味もない。すでに足は川の中だ。

エキサイトが止まらない。今度は前輪を深く沈めた三輪車の救出だ。押す。なかなか出ない。一人が三輪車のテールを引っ張り、一人がハンドルを押す。両側から、引っ張る、押す。何度も繰り返す。「バッシャーン!」、「わぁ~!!」、前輪をぬかるみから脱出させて三輪車を救出した代償に泥まみれになった彼。こんなに清々しい泥んこファッションはないだろう。

落ちないように渡るというスリリングな体験。そこで得たぬかるみの面白さ。その面白さを存分に活かしたダイナミックな遊びへの展開。仲間の体験を自分のことのように感じる心。だからこその共感があり、その共感あっての阿吽の呼吸であり、協働であった。すべて遊びの賜物である。感動に満ちた空の行方。子どもごころと秋の空。

 

「つくることはいのち循環」のお話

園長: すぎもと かずひさ (2019年9月30日

「つくることはいのち循環」のお話

理事長 すぎもと かずひさ

 

何とも言えない顔つきでこっちを見ている。子どもの絵だ。渦巻くように大きく見開いた眼、叫ぶように開いた口。ユニーク過ぎて吹き出してしまう。ギザギザの歯が怖い。あの耳の大きさはどうだ。羽にしてどこかへ飛んでいこうというのか。気を失っているのか眼球がない等々、兎にも角にも一筆一筆に子どもの気持がこもっている。どんな心情で描いたのか、想像するだけで楽しい。子どもが楽しんで面白がって描く。これが肝心、保育者の腕の見せ所である。

運動会で子どもはお店屋さんに扮した。何を売るのか、各クラスで話し合いを重ねてきた。そして、みんなで決めたお店屋さん。お店屋さんになった自分自身を描いた。プロセスを重ねるごとにモチベーションを高めていく子ども達。

絵画活動では絵の具はそのまま使わない。保育者は活動のねらいやテーマに応じて色の混ぜ合わせ方や濃さ等を吟味し、園長や主幹に提案する。アイディアは、草木染や色水遊び、ボディペインティング等々、子ども達と共に歩んできた遊びや活動に由来する。こうして用意された絵の具や染料と子どもが出合う。心情が絵に現れる。そんな作品の数々が3歳以上児クラスの運動会シンボルであった。

この保育ストーリーを音楽に展開すると歌になる。「まさか作曲するとは思わなかった」、大役を担った一年目の保育者の言葉である。作曲経験のない保育者に無理を承知で依頼する。その心は「無から有を生み出すことこそ生きている証であること」、「作り手の苦労とそれを超える喜びを体験的に理解すること」である。

鼻歌のように作ればいいよ、という。ピアノやギターで作ろうとすると楽器がよほど達者でないかぎり、自分の技量の枠にはまって自由を奪われるからだ。聴いたことのあるような歌でいいよ、という。ポールマッカートニーの言うように完全なオリジナルなどないからだ。それよりも、子どもの日々の活動から言葉をもらい、運動会遊びの保育物語から言葉を共に生み出すことが素晴らしいのである。まさにこの子ども達、この保育の仲間が存在するからこその創作活動に最高の価値を置きつづけてきた30余年がある。

変なメロディがある。平成生まれやのにどこまで昭和なメロディやねん、と笑い転げることがある。それでも愛しい作品たちである。子どもの絵が笑いながら語り掛けてくる。つくることはいのち循環、一人一人の存在そのものやで、と。

『 こどもどおり まんましょうてんがい 』 のお話 

園長: すぎもと かずひさ (2019年8月30日

『 こどもどおり まんましょうてんがい 』 のお話

 

理事長 すぎもと かずひさ

 

今年の運動会のテーマは 「こどもどおり まんましょうてんがい」。子どもが活動するところ、行き交うところが「こどもどおり」になり、オーライ(往来)!子どもを豊かな個性のままに受け容れようとする姿勢とご飯を意味する「まんま」に手を合わせて、いただきます!さらに、「商店街」と一人一人に焦点の当たるまち「しょうてんがい」をつくろう!そんなメッセージを込めて企画中です。

いらっしゃいませ~、いらっしゃいませ~、本日は、ようこそ「こどもどおり まんましょうてんがい」へおいでくださいまして、誠にありがとうございます。当商店街は世界でも珍しい子ども主催の商店街となっております。その特徴は何といいましても子どもならではのわがままいっぱい、愉快で豊富な商品構成にございます。

主に取り扱っておりますのは、「子どもごころ」と「遊びごころ」になってございます。それゆえすべて手作りの一点ものばかり取り揃えており、いわゆる規格品はございません。また、店主の機嫌や調子次第で同じ商品名でも全くの別物ということも、ごく当たり前のこととなっております。どうぞ気合を入れてご確認の上、ご購入のほどよろしくお願い申し上げます。

また、一度ご購入いただきましたもの、開封されたもの、さんざん使用されたものでありましても、決してお捨てにならないようご注意願います。交渉次第で何度でも商品の交換が可能となっております。各店の店員は一人一人個性的かつ豊かな特性を持っております。商品だけでなく買いものを通じての触れ合いや交流もぜひお楽しみくださいませ。

最後に通貨についてご説明いたします。店員たちはいわゆる「金銭」には価値を見出しておりません。単に身振りを添えて「ちょうだい」と仰ってくださいましても購入いただけることもございます。また、面白いことが大好きなスタッフばかりでございます。ジョークやにらめっこで笑わせたり、じゃんけんやなぞなぞ勝負を挑んだりすれば勝っても負けても素敵な特典がもらえるかもしれません。

それでは、秋のひと時、「こどもどおり まんましょうてんがい」で「子どもごころ」や「遊びごころ」をがっちり買い込んできてくださいね。子ども時代ならではの体験がいっぱい、生涯抱き、育みつづけていきたいこと満載の「こどもどおり まんましょうてんがい」、まもなく開店で~す。生涯繁盛、看板ベイビーを先頭にみんなでお待ちしております。

『 こおり(氷)ゃ、すごい夏の遊び 』のお話

園長: すぎもと かずひさ (2019年7月31日

『 こおり(氷)ゃ、すごい夏の遊び 』のお話 

 

理事長 すぎもと かずひさ

 

梅雨明けて夏本番である。子どもたちが満喫する水遊びについてその一端を紹介しよう。

沐浴を楽しむ赤ちゃん。ぬるま湯に全身を預け、「ほーっ」と口を開けて浮かんでいる。この上なく気持ち良さ気な風情に「行水に 尿や波紋の いとをかし」としょうもない句が思わず漏れる。水遊びの原風景である。沐浴に穴の開いたビニール袋を用意する。穴の大きさや数を加減して、水の零れ落ちるさまに変化をつけていく。手を伸ばす子どもたち。手のひらに当たる感触や雫が伝い、いくつもの支流が手や身体を濡らしていく。さらにスポンジやカップを置くと、つかんだり握ったり、入れたり流したり等と、自然に水の特性を生かし、味わっている。容器は溜められること、自分の手に一時保存できること、保存したものは、他の時間と場所で活用できること等、水と関わった「もの」の特性に加え、自分の行動との関係性についても体験的に学んでいく。

園庭である。乳児期の体験を引っ提げて子どもたちが駆け回る。流れる遊び、流す遊びは「世界を広げていく遊び」である。どこまでも広げ、変化を楽しむことができるその可塑性が魅力である。水たまりの淵をスコップや棒でひっかき水流を誘う遊びからカップやジョウロに水を汲んではそこかしこに撒き散らかす遊び。友達と協力して満タンのバケツを築山のてっぺんからひっくり返す遊び等々、ルールの多い日常ではありえないことも水遊びならではの醍醐味である。概念を超えて遊びの価値に出会う瞬間こそは幼児期のかけがえのない体験といえるだろう。

泡遊びも楽しい。ふわふわの泡の感触、どんどん泡立てて盛り上がっていくさまは気持ち良すぎてずっと触っていたくなる。ふわふわから連想してソフトクリームに見立てたり、泡立てているうちに我慢できずに被ってみたり、どうにもこうにも気持ちいい。水遊びの苦手な子が全身泡だらけになって着物のようにまとっている姿に泡食っちゃうこともしばしばだ。

そして、氷遊び。冷やっこい感触は猛暑にこそうれしい。しかも保存が効く。低年齢の子どもたちには保育教諭が色とりどりの水を様々な形の容器に入れて凍らせたものを提供する。幼児になると自分たちで作った色水を凍らせる。グラデーションカラーに作った色水や草木の染料を容器に入れ、さらに花びらや木の葉を浮かべては、どんなふうになるのかを展望し、期待を膨らませていく。遊びは子どもとともに成長していく。こおり(氷)ゃ、すごい夏の遊び。

 

『 梅干しづくり・愛着のプロセスはうめ~ 』のお話

園長: すぎもと かずひさ (2019年6月28日

『 梅干しづくり・愛着のプロセスはうめ~ 』のお話 

 

理事長 すぎもと かずひさ

 

梅を取る。見上げる葉の陰にコロンコロンのお尻が見えている。高さに出会い、脚立で上る。友達と自分。順番を待つドキドキと梅の実に触れるワクワクが全身をめぐり、仲間の数だけ広がってゆく。誰かが帽子を逆さに開いた途端、餌を待つ小鳥のひなの口のように、逆さ帽子の花が咲く。咲いた帽子に次々に入る梅。そして、段ボールへ、大量だ。一つ一つを手に取ってみる。産毛が可愛い。思わず顔を近づける。青梅の息吹香り立つ、初夏の一ページである。

重さを図る。一人一人が収穫し、喜び味わった梅の実は、やがて透明のビニール袋に集められてゆく。ビニール袋は上皿秤の上で当番の子どもに支えられ、玉入れの籠さながらに口を開けている。「ひと~つ、ふた~つ、み~っつ・・・」、入れるたびに針が揺れる。子ども心も揺れる。凝視する眼に「ものが新たな世界に入るときは揺れること」、「客観的事実を捉えるときは揺れが安定するまで待つこと」を教えてくれる。重さは、実の数の足し算でもあり、仲間の人数の掛け算でもある。量り終えた袋を持つ。ずっしりと重い。一つとは大違い、みんなのいっぱいが感動の重さになった。

水で洗う。車座の仲間にステンレスのボールを回す。ボールにみんなの顔が映っている。三面鏡を覗き込むように一つずつ梅の実を入れていく。名残惜しさと待ち遠しさから前の友達と次の友達の手足や吐息が絡んでくる。ボールが揺れる。香りを追いかけるウェーブだ。いよいよボールに水を張る。仕事がうれしい。当番になった子どもの充実した顔。こぼさないようにと、祈る仲間。梅の様子を横から上から、近くから遠くから眺めつづける眼差し。「うーちゃん」とか「ほしくん」などと愛称を付けては語り掛ける子どもが現れるほどに愛しい。

へたを取る。洗った梅の実の水分をしっかりふき取ったら、つまようじをもらい、へたの場所を見定める。自分も、友達も、真剣だ。「やさしく、やさしく」と声をかけ合いながら、丁寧にへたの根元をほじってゆく。みるみるティッシュペーパーの上にへたが積もる。山盛りになった梅が輝いている。塩と梅を交互に瓶へ。最後は袋に水を入れて蓋をする。みんなが入れた。みんなで入れた。

こうして漬けられた梅干しである。子どもたちがパワーを送る。パワーの正体は言うまでもなく、プロセスごとに育まれてきた愛着である。「うめ~」に違いない。

 

『道草気分で』のお話

園長: すぎもと かずひさ (2019年5月31日

『道草気分で』のお話

 

理事長 すぎもと かずひさ

 

「規則正しい生活は宝」という言葉がある。赤ちゃんの心(脳)と体を健やかに育むために食事、睡眠、活動のバランス、リズム等々を整えることが、生涯を通じて大切なことはご承知の通りである。

赤ちゃんは覚醒と睡眠を繰り返しながら徐々に体内時計を築いていく。ミルクを飲んだり飲まなかったり、その時の健康状態や体調、機嫌等にも左右される。お母さんは一挙一動を丸ごと受け止め、受容しつづける日々である。このような観点からみると、「共歩き、共育ち」の原点は、大人の側から一方的に子どもに関わる時期のように映る。大人>子どもの関係である。

「子どもは能動的な学び手」という言葉がある。どんなに小さくても自らの欲求を持ち、意思を萌芽し、両者を絡めつつ能動的に人や物と関わってゆく。自分の行動により生起する相互作用を楽しみ、対象への興味を深めながら、関わってゆく過程でさらに面白さを感じては遊びこむ。「やりたい、やってみたいという気持ち」は意欲の源である。このように子どもの側から捉えると、子どもがいかに主体的に生きる存在であるかということに気づかされる。

さあ、「規則正しい生活」と「能動的な学び手」を両立してみよう。

「起きたね~、ありがとう」。自分で起きた場合はもちろんのこと、起こした場合でも大人の関わりに協力していることを喜んでみる。着替えの場面では、「お手々あるかな~、あった~」と存在の喜びを伝えたり、「あんよさん こんにちは~、こんにちはできたね~」と偶然の行動も喜んでみよう。手足のバタバタに「フリフリ~、12」と合わせてみたり、泣きには「出したい~出ない~、アババ~」とやってみたりする。食事の時は「お口パクパク見せて~、わぁ、元気~、うれしい。元気に乾杯~」等々、とにかく、やりとりを楽しみ、バリエーションを豊かにしてゆく。つぎに、このようなやりとりを規則正しい生活リズムに無理のないよう配分しよう。

やりとりの延長線上に、献立の決定、お手伝い、遊びの計画、休日の過ごし方等々、子どもが参画できる場、一緒に考える機会を見出すことが可能になってくる。「こんなこと言うようになったんだ」、「こんなことができるようになったのね」と、子どもが大きくなるほどに美味しいひとときが現れる。

一日単位で見える道、週単位、月単位、年単位で見通してみる道。さらには長期的視座に立ち子どもと自分の人生を展望してみよう。道草気分で。

「食育は日本の誇り、保育の誇り」のお話

園長: すぎもと かずひさ (2019年4月26日

『 食育は日本の誇り、保育の誇り 』のお話

理事長 すぎもと かずひさ

 毎月の誕生会の日には「エプロン・タイム」と称し、栄養教諭がプロデュースする取組が行われる。献立に登場する食材の紹介、日本地図を用いての産地やその地方の伝統行事のお話等々、単に食べるだけでなく、その由来や関連することを繋げて、子どもたちにより広く、深く味わってもらおうというねらいである。

 さて、今月は新じゃがの登場であった。皮が薄いので皮ごと食べられるのが特徴だ。憧れの三角巾にエプロン姿のキッチンスタッフが新じゃがを手に身振り手振りを交えて話し始めると興味津々、可愛い眼は釘付けである。

 いよいよ子どもの眼の前に並べられる新じゃがたち。もう、じっとしていられない。両手をブラブラ、足をバタバタ。期待が沸騰し始めて、落ち着きのなさが半端ない。「じゃあ、触っていいよ」の合図とともに、たちまち人気者になる新じゃがたち。目で見て、手で触れて、匂いを嗅ぐ。中には、新じゃがの言葉や歌を聞くように耳に当て、おしゃべりを始める子どもがいる。日頃のごっこ遊びが生かされる。何でも見立て、再現する。「もしも~し」と笑いの輪を広げながら以心伝心の無線電話も混線模様である。

 「食」の大切さ、「生命」の有り難さを舌以外でも味わい、学びながら、生活と遊びを往還し、子どもの食育世界は広がってゆく。人間の本能である「食べる」活動への関心は元来高い上に数々の喜びがある。「今日のごはんは何?」と、子どもたちは、毎日、キッチンへ向かう。「美味しかったよ~」、と伝えにゆく。スタッフの喜ぶ顔や反応が嬉しくてまた言葉をかけにゆく。「何切ってんの?白菜?」と尋ねる子ども。「おしい!キャベツだよ!」と応えるスタッフ。こんなやりとりを通して白菜とキャベツの違いを理解してゆく。

 目玉の取組であるリクエストメニューでは、「それ、僕が頼んだやつ?」、「わーい、やったー!」、「おうちでもつくってくれはったよ!」等々、自分の願いを届ける喜びから実現されてゆく喜び、実際にメニューとして登場する喜びを味わう。さらにおうちに帰って園での嬉しかった体験を話す喜び、今一度、おうちでメニューに取り上げてもらう喜びを体験する。

 キッチンは子どもを真ん中にした食育の基地である。保育室以上に活発に話す子どもがいる。スタッフも子どもたちの訪問が嬉しい。食育計画は、昨年改訂の認定こども園教育・保育要領でも「教育及び保育の内容並びに子育ての支援等に関する全体的な計画」の柱として位置づけられた。乳幼児期の原体験を思う日本の誇り、保育の誇りである。

「子どもの歌を いつまでも」のお話

園長: すぎもと かずひさ (2019年4月 8日

『 子どもの歌を いつまでも 』のお話 

 

理事長 すぎもと かずひさ

光る太陽 にこにこ笑顔 小さな胸の大きな夢は 

ぐぃ~ん ぐぃ~ん ぐんぐんぐん

空の果てまで飛んで行く あ~あ~ 楽しい みんなのこども園

 

宇治の河原に 大吉山に 小さなみんなの大きな声が

やっ やっ やっほっほ~

空の果てまでこだまする あ~あ~ 明るい みんなのこども園

 

いつも元気に 輝く瞳 子どもと大人の心の広場

わ~い わ~い わっわわ~ 

空の果てまで伸びていく あ~あ~ みんなの みんなのこども園

 

こども園の歌である。「みんなのき三室戸こども園」の前身である「三室戸保育園」が設立された三年後、昭和51年の夏、高校二年生の時に父に頼まれて作った。歌詞は父との合作で三番を父が作った。「生き生きとした子ども像」とその土台を支える「子どもと大人の心のつながり」を永久に紡ぐ歌詞である。

「三室戸保育園」は、昭和48年に当時龍谷大学で幼児教育・保育及び児童福祉の研究者であった父が理事長となり、実践と研究の場としてスタートした。理念は「いのちを大切にすること」であり、障害の有無にかかわらず、誰もが受け入れられて共に生きる場として、一人一人の子どもと家庭の理解に努め、「子どもの最善の利益」と「子どもの福祉の増進」を目標に歩み始めた。

また、職員も老若男女のバランスを考慮して当時資格のなかった男性を宇治市第一号の「保父」さんとして、二人配置していたことも画期的であった。父の子どもを見つめる眼差しはいつも優しく、そのあたたかさは晩年になっても変わらなかった。ただ、いのちを愛する眼差しであったと思う。 

創立47年目を迎える今日まで、志を等しくする仲間とあたため、耕し続けてきた理念を子どもたちにプレゼントしていきたいと思う。赤ちゃんのそばに寝転んでは同じ視界を分かち合い、子どもと同じようにハイハイやスキップしては歓声を交わし合う。

「あなたが居るから、人間が好き」、「あなたの願いは、わたしの願い」、こども園、保育園、福祉園という「子どもの庭」に笑顔の花が咲き誇る。そのような日々を綴る子どもと大人の心の広場、心のつながりが生み出す「子どもの歌」をいつまでも・・・。

「愛の土壌」のお話

園長: すぎもと かずひさ (2019年2月28日

「愛の土壌」のお話

理事長 すぎもと かずひさ

 

 年長さんがごそごそやっている。毎日、決まった時間になると数人連れだって向かう部屋がある。おや、今日は何か持っているぞ、白い布だ。大事そうに抱えて何をするのかな。よく見るとあちこちがゴムや紐で縛られて変な形。手に手にその白い布を持ってあの部屋へ入っていく。この先は年長さんしか入れない。指をくわえて部屋の外から様子を窺う。突然の歓声や笑い声。怪し愉しい雰囲気が絶好調だ。

 やっと出てきた。よほど面白かったんだ。みんな満足げな顔である。さらに、手は真っ青。そして、その青い手よりもなお青いTシャツを持っている。ところどころに見える白抜きの模様がすごい。大小の丸や蛇行する川のような線が踊っている。みんな違う。かけがえのない逸品を手に年長さんが保育室に帰っていく。湯気立つ姿がうらやましい。

 彼岸が過ぎると種を蒔く。年長さんが卒園前にくれた特別な種だ。「あいのたね」というらしい。うまく育てると年長さんが着ていたあのTシャツが作れるという魔法の種だ。そんなお話の後、先生が言った。

「今から、特別な種を配るから優しく手を広げてね」。嬉しすぎて、大切すぎて、緊張する。順番が回ってくると「わぁー」とか「きゃぁー」とか言っている。みんな同じなんだ。言葉にならないくらい大切っていう気持ち。ついに順番が来た。ころんとのっかる「あいのたね」。可愛い。

 子どもは人間の種である。愛おしそうに「あいのたね」を見つめる子どもたち。植物の種と人間の種が見つめ合っている。育ちゆく者同士のいのちの対話である。蒔いた土に声をかけ、何もないところをのぞき込み、発芽を祈る。このような日々を重ねているから、素晴らしく発見が早い。発芽。「芽が出た~!!」の言葉が園舎中を駆け巡る。連なってのご対面、眼と芽が出合う。祈りが、期待が、愛着に、親しみにどんどん代わっていく。「藍さん」とさん付けで呼んだり、ニックネームで呼ぶほどの愛情が広がっていく子どもの輪ができる。

 子どもたちは拙い。知識も技術も知恵もない。ところが、ひたむきな思いはどうだ。純情を言葉にし、行動に移す。知らないことは尋ねては調べ、得た力をすぐに使う。藍が大きくなっていく折々に天候や害虫等の困難があった。また、すくもの発酵や藍液を見守るプロセスでは日常の仕事に触れた。その原動力は「あいのたね」に語り掛けたあの日。祈りを愛情に代えて耕してきた「愛の土壌」である。

『童心を育む人間の日向(ひなた)』のお話

園長: すぎもと かずひさ (2019年1月31日

『童心を育む人間の日向(ひなた)』のお話

 

理事長 すぎもと かずひさ

 

子どもがしょんぼりしている。微笑みかける。おおらかに心と体を開き、悲しみや寂しさ等の負の感情ごと、「きみを受け止めたい」という意思を表す。思いが伝わったとき子どもは心を許し、「泣き」や「甘え」を分けてくれる。嬉しい。「甘えていいんだよ」、「楽にしてね」、「抱っこさせてくれてありがとう」等と、「あなた」と「わたし」が分かち合う喜びと互いの存在への感謝を込めて関わっていく。

子どもの表情や心身の状況、一挙一動の機微に応じようと試行錯誤を繰り返す。眼の前の子どもに、かつての「わたし」がいる。幼い頃の心細くも頼りない気持ち。甘えや駄々を受け容れてもらった嬉しさ。包まれるような感覚、溶けるように癒されていった心持ちと安心感。記憶が蘇る度に眼前の子どもと幼い日の「わたし」が重なり、共感の糸口となって、例えば「撫でる」という行為の一つにさえ、自然に魂が込められていく。

このような触れ合いを通じて、子どもは安心感の根を張っていく。人間信頼の根である。正も負の感情も受け容れられるので恐れがない。のびのびと自己を発揮し始める。行きたいところへ行こうとするとき、欲しいものを手に入れようとするとき、友達と関わろうとするとき等、日々世界を広げながら生きる日常は、挑戦に溢れている。ゆえに、失敗は成長や挑戦の証であり、称賛に資すると理解する身近な人の存在が大切なのだ。子どもは、そのような人との心の触れ合いを通じて、意欲、向上心、平常心、学びに向かう力等の人間性の土台を育くんでいくからである。

子どもの心は元気になったり、意気消沈したりしながら育まれていく。正と負の間にある様々な感情を体験しては思いやりの芽を育くんでいく。当初は同様の体験をした者同士が、支える側になったり支えられる側になったり、役割を代えて助け合っていく。「受け容れてもらった経験」が互いに生かされ、自分のことのように人の気持ちが分かる人間へと成長していく。こうした感情交流がやがて友情や親愛の情になり、自分が体験していない他者の体験をも、自分のこととして人間形成に取り入れるようになっていく。 

子どもの心は、「子ども」に関わり、数々の「場」を共につくり、「生」を分かち合って生きる人々や仲間との豊かなやりとりや関わりによって耕されていく。生き生きとした眼力を宿らせて、発声したり、話し出したりする尊さ。子どもが自らの「主体」を前向きに働かせ始めるところ、童心を育む人間の日向がある。

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