『子どもん中の子どもを生きる!』のお話 

園長: すぎもと かずひさ (2021年2月26日

『子どもん中の子どもを生きる!』のお話 

理事長 すぎもと かずひさ

 

「童心のつどい」では、黄檗の年長さんは遊びの種を蒔き育てる「遊びのチャンピオン」に、三室戸・Hana花の年長さんは子どもごころを謳い広げる「劇団こども座」になった。そのこころは「子どもん中の子どもを生きる!」である。一人一人(=みんな)のこころは生き生きしているかな。一人一人(=みんな)の「いま」に、全身全霊を傾け、その心身の様子や動きへあたたかに応答しながら、適切な関わりを模索・探究しつづけること。これが「みんなのき保育」の志す線である。

「いのちを大切にする」という法人の理念は、子どもの不安を安心へ、恐れを勇気へ、失敗を試行錯誤へ、経験を自信へ、裁き心を受容へ、と誘う。あたたかで受容的、共感的、肯定的かつ自由な雰囲気が、一人一人(=みんな)の希望の明日へ開かれている「みんなのき」の風土を耕す。

その土壌に、乳児期からの「創造のライン」を意識した保育が芽生えていく。一人一人(=みんな)を見守っていると、遊具を使いたいときに力ずくでも使える子、誰かが使わなくなった隙を見て使おうとする子、すぐに取られる子、あきらめて違うもので遊ぶ子、数を揃えても友達が使っているものが欲しい子などなど、実に様々である。取り合いが起こる。泣きが聞こえる。一人の泣きは私の泣きであり、みんなの泣きだ。この泣きの減少を目指す試行錯誤の中で「取り合う遊びから創造のラインを結び、絡ませ、分かち合う遊び」への転換は図られていく。

3歳児さんになる頃には、子どもの直観的思考と行動によって創造物が園中に溢れかえる。作り描いた当人の作品があれば、様々な子どもが好き好きに作り足したり描き足したりする共同の作品もある。当初は野菜だったモノが用途や使う子どもによってロケットや飛行機など、次々と多様に見立てられては、仲間を伝っていく。使いまわされていくごとにみんなの創造的な関わりや意味が加味されていくといった風情だ。

どの子も「現在を最も良く生きる子ども」に、「生来の能動性や自分らしさを発揮しつづける子ども」に、「自分のやりたいことを自らの手足で見つける子ども」に、「様々なヒト・モノ・コトへの好奇心を育み、意欲的に関わる子ども」に、「それぞれの仕方で遊びの世界を生み広げ、自分なりの意味生成の詩を謳歌する子ども」になっていく。「子どもん中の子どもを生きる!」人生の「根っこ」に「みんなのき」が伸びていく。

『童心の浜辺』のお話

園長: すぎもと かずひさ (2021年1月29日

『童心の浜辺』のお話

理事長 すぎもと かずひさ

 

一年を振り返る。一度目の緊急事態宣言時には、登園自粛のご協力をお願いした。宣言明け、久々の再会。子どものはしゃぎ喜び合う姿は、仲間の存在の大きさを教えてくれた。

そして、二度目の緊急事態宣言。ご存知の通り、前回とは異なり、保育園、こども園だけでなく、すべての学校・園が開かれている。ロックダウン下のイギリスでさえ、小学校以上の休校にもかかわらず、就学前の4歳未満児の施設については子どもの発達を見守る観点から開設されているという。

Withコロナ。市中感染が広がり、感染リスクと向き合いながらも、なお大切に守っていかなければならない「子どもの育ち」がある。

今月は乳児クラスからの保育の集大成ともいうべき「童心のつどい(表現遊び発表会)」を予定している。「童心のつどい」の名の通り、ご家族が一堂に会し、子どもの保育の四季をスライドショーと童謡で綴り、あの時この時を思い出しながら、子どもの成長を共に喜び、それらを支えて来られた親御さん方のご労苦や頑張りを称え合う祝福の日であるが、今年はままならない。

されど、子どもの発表は、今年度の子どもならでは、一人一人の子どもならではの表情・仕草・表現・風情が薫る世界に唯一無二の表現遊びの伝統を守り、準備の真っ最中である。子ども自らが遊び楽しんできた内容、子ども自らが「楽しかった」「面白かった」と選択した場面を子どもと保育者が日々の遊びのやり取りを楽しみながら表現遊びに仕立てていく。年長児になると、小道具や台詞、身体表現に至るまですべて子どもの手作りで行う。衣装や言葉など、一人一人の個性が豊か過ぎて、発想が面白過ぎて、笑い転げるほどに尊い。

その尊さは、乳児期から様々な素材に関わり、仲間と共に遊び世界をつくりつづけてきた「体験=遊びの地層」に由来する。各自、各所で始まる一人遊びは、「自分がつくりだす夢中な世界」と「仲間の面白そうな行為へ互いに関わり合う世界」の化合により、いくつもの新たな局面を生みつづける遊びへと展開していく。

誰もが主体の相互主体的かつ直感的な関わり合いの中で、子どもは自分という枠を超えて、演じる自覚のない役者さながらに自らの生命を全うし、仲間を受け容れていく。「生命が躍動するひととき」は大人の童心を打つ。拙くも美しくかけがえのないハーモニーは今を生きゆく子どもそのものである。理想の人間像を示す童心の浜辺。

『 みんなのきの初日の出 』のお話

園長: すぎもと かずひさ (2020年12月28日

『 みんなのきの初日の出 』のお話

 

理事長 すぎもと かずひさ

 

 

躍動する子ども達。興味津々の眼は懸命のハイハイやヨチヨチの先に、もう楽しいことを見つけている。いつでもどこでも、毎時、毎日、これから自分達が生きてゆく世界のもの・ひと・こと達と様々に出会っては、かかわり、いろいろな面白さや意味を綴りゆく存在である。

朝、園に入ると昨日の自分達に出会う。保育室には、つくりかけのブロックや拾い集めた小枝に色とりどりの毛糸を巻いたものなど、どれもが産まれたてのほやほやで未完の湯気が薫っている。小さいけれど活発に働く手によって、「遊びの作品」が続々と産み出されているのだ。「手」は当然のことながら、一人一人の子どもの全身全霊を代表している。子どもの息吹を浴びる一挙一動。ときにささやきかけられながら、ときに会話と共鳴するように、変幻自在の様相で、つくる子どもの思いの数ほど意味を生成し、新たな現象や形となって、自分達の生活空間を彩ってゆく。 

園庭では、ある3歳児さん。どっかと腰を下ろし、三角座りで尻を支点、爪先立てた両足をコンパスの鉛筆部に見立て、爪先の開閉と左手で地面を押すようにしてくるくる回っている。見るからに窮屈そうな姿で何度も、何度も回っている。回転につれ尻と爪先を半径に見事な円が描かれてゆく。よく見ると、三角座りの尻・膝・爪先三角の底辺=地面に右手で添わせるように持たれたかまぼこ板のような木切れが見える。板の長辺を地面と平行に添わせながら、絶妙な摩擦係数で地面を擦り回ってゆく。この運動と仕組みによって、垂涎の遊びの逸品「さら粉(粒子の細かいサラサラの砂)」を製造していたのだ。

この全身を活用した「さら粉製造機」が、彼の今日の大発見・大発明である。「さら粉づくり」には、トレーなどの皿状のものに砂を入れ、前後左右などに傾けながら粒子の大きいものを落下させる「重力選別法」や木板やコンクリートの表面を叩いて集める「面叩き浮遊法」など数あるが、3歳児の彼にとっては難しかったのかもしれない。地面を削ってせっせとさら粉を集める単純作業をどれくらいつづけたのだろう。経験が実って「回転摩擦削出法」を編み出した功績と仲間を称えたい。

新たな年も、感動や活き活き感が人間関係を抱擁・包容し、成長や育みを促進する園でありたい。困った眉間、笑う首、真剣な瞳、ぼんやりした口など、目的の達成とは別次元で見せるその子らしい表情や仕草、佇まいは、なお尊い。一人一人の子どもの存在、生命の尊厳の実感に、誰もが主体となって躍動する「みんなのき」という生命体が生まれる、初日の出。

 

『「へたり」はパワースポット』のお話

園長: すぎもと かずひさ (2020年11月30日

『「へたり」はパワースポット』のお話

 

理事長 すぎもと かずひさ

我が園のシステムキッチンは段ボールで出来ている。フライパンも、レンジも、リビングに置かれたテーブルも、椅子も、である。調理台の上には段ボールでかたどった芯の握り手に赤色ビニールテープ、刃先部分に銀紙を巻いた包丁が魅惑的なフォルムで使い手の到来を待ち受けている。

部屋の間仕切りには〇△□のいくつもの窓が設けられ、内と外とのやり取りを誘っている。さらに、その先にはトンネルや太・細・長・短の筒を取り付けた壁、大・小・高・低、幾種類もの扉のついた小部屋がリズミカルに連なり、遊び心に火を灯す。

このたたずまいは、遊びの主である子どもや子どもごころを持った大人の登場により、さらに風合いを増してゆく。もたれたり、つかまったり、のぞきこんだり、喜び満載、好き放題の行為が眼にも愉しい「へたり」をつくってゆく。この場所が楽しい行為のメッカであり、幾度となく繰り返される遊びの多様な行為によって形作られてきたことを物語る。

「なぜかしら、これが人気なんですよね」と、その中の小さな箱を指差し、ある保育者が語り始めた。新たな工夫や意匠をこらしたまわりの段ボールたちと比べて明らかに見劣りのする小さな箱だ。圧力と重力、遊ぶ子どもの様々な関わりによって、ひしゃげ、元の立方体の角が落ち、全体的にまあるくて可愛い。語る保育者の瞳には、無邪気に笑い、生き生きと遊ぶ子ども達の姿が映っているに違いない。遊びこまれた「へたり」の曲線部分を銘器ストラディヴァリウスの胴を撫でるようにしながら、昨日の保育を愉しく語る。

「へたり」はパワースポットだ。子ども達の人気を集めて触られまくる。一つ一つの行為は星の瞬きのように消えてゆくけれど、「へたり」は流れ星のように遊びの軌跡として現れて、今ここに在る。永遠ではないけれど今日の遊びの風情として、子どもを惹きつけ、遊びを盛り上げてゆく。遊びの天使が遊びこむほどにもたらした壁や扉の歪み、天井の傾斜が醸し出す風合いは、わたしが・・・、仲間が・・・、保育者が・・・、みんなが、躍動的に愉しんだ経験の賜物なのである。

過去の体験が、今に生きて、今を生きる。その意味は深く、大きい。遊びが生きがいを育んでゆく所以である。日常的な有用性には直接的に結びつかないかもしれないけれど、充実の人生には不可欠である。生きる意味を生成するプロセスのそこかしこに、つつましくも幸せな風景がある。

「遊びの場が磨きゆく子どもの秋」のお話

園長: すぎもと かずひさ (2020年10月30日

「遊びの場が磨きゆく子どもの秋」のお話

 

理事長  すぎもと かずひさ

 

光や風、水や土との様々な出会い方をしてきた子ども達。草花のみずみずしさに心打たれ、一粒の種の生命力に驚き、小石の裏や草の間に現れ消えるアリやダンゴムシ、チョウやバッタに歓声を上げては、泥んこになって遊びまわってきた。

「うちのお庭がジャングルで~(^^♪」の歌の歌詞じゃないけれど赤ちゃんや小さな子ども達にとって、園庭や近所の道、公園は好奇心の住処であり、道草のネタに尽きない。その世界との出会いを一人一人の仕方で仲間と絡ませ合いながら、味わいゆくところに「アクティブ・ラーニング」「環境を通して行う保育」の妙味がある。

子どもの視界に飛び込んでくる石段や地表の凸凹、生い茂った垣根の根元などなど、環境の様相のあれこれが、「のぼる」「こえる」「わたる」「くぐる」「とぶ」などの行動を誘い出す。当初は「飛び降りる」といった行動だけを楽しんでいたかと思えば、繰り返しているうちに「やーっ」とか「びゅーん」などと叫びが運動と共に放たれるころには、動きに魂が宿り、心身一体の活動が溌溂として躍動感が友の間を廻り仲間の絆を編んでゆく。

静的な場面でも心は動きつづける。木製ベンチに溶けるように抱きつき、表面を撫でる子どもの姿は、どれほど心地よい感触がその木肌にあるのかと他の者を羨ましがらせる。居心地良さそうな表情や姿は、静かにしていながら仲間を引き寄せる。このようにどの子も、それぞれの、その時々の仕方で世界との出会い方を楽しみ、披露してくれる毎日である。

繰り返すから昨日の自分や過去の体験を活かせること。その軌跡の先に今日の新たな工夫やひらめき、冒険や挑戦が生まれること。仲間の数や個性・特性がのびのび自由に発揮されるほど、自分の仕方とは異なる多様なイメージや環境とのかかわり方、モノやコトの見方や考え方に出会えること。一人一人の子どもが個性的・想像的創造に満ちた物語を生成しながら、自己と仲間の活動を流動的かつ躍動的に充実・交歓してゆく場が「遊びの場」であること。これが新たな教育・保育要領や教育課程で示されている「主体的・対話的で深い学び」の実相である。

遊びの場には子どもの「やりたい」が集まってくる。意欲の塊が爆発する場と言っていい。このエネルギーと森羅万象との出会い、紅葉や団栗との出会いが美しく降り積もり、切なくなるくらいの自然への憧憬が育まれる季節である。感動体験の連続が子どもの秋を磨いてゆく。

『 子ども時間と遊びの哲学 』 のお話

園長: すぎもと かずひさ (2020年9月30日

『 子ども時間と遊びの哲学 』 のお話

理事長 すぎもと かずひさ

 

「えんちょう~せんせぇ~」と子どもらが呼ぶ。何とも表情豊かな声音に心揺さぶられて「ふぁいふぇいぷーぷー」と音声を重ねるわたし。思わず子どものイントネーションとリズムを模倣した格好だ。意味がない言葉に子どもらが笑う。意味はないけれど面白い要素がある。聞き覚えの無い音声の奇妙な感じ?インスタ映えするわたしの顔の表情?はたまた全身から発せられる雰囲気?何が滑稽なのか定かでないが、笑い転げる。嬉しくなる。

「ふぁいふぇいぷーぷー、ってなんや~」と言いながらもう真似を始めている。「ふぁいふぁいふぇいふぇい、や」と意味不明の説明をさらにするわたしの後から、「わいわいひゃいひゃい」とか「べっべいぺいぺい」などのアレンジをどんどん加えていく。その姿が面白可愛くてわたしも笑う。かけがえのない「子ども時間」が流れていく。即興表現ならではの世界を散歩するように楽しむ一コマがある日常。その大切さを思う。

先日、保育の質について語り合うある場で「古代には古代の、平安時代には平安時代のリズムがあって歌や舞、日常の所作や言葉遣いにまで大きな影響を与えていたことを思うと、現代の日本社会のリズムが子どもに及ぼす影響についてあらためて捉えなおす必要があるよね」との発言があり、大いに共感したのだった。前出の「ふぁいふぇいぷーぷー」も「子ども時間」にふさわしい時間の流れ方、リズムがあっての産物にちがいない。

子どもは行動することで学ぶ。「実生活」の行動に関わることで学ぶ子ども達の「実生活」は、多くの場合、大人に主導権があり、子どもの体験は身近な大人の考えやスタイルに左右されてしまいがちだ。忙しいとき、心を奪われているとき、ついリズムを忘れて行動するわたしがいる。そんなときほど、深呼吸をして「遊び=ゆとり」のこころを取り戻そう、と言い聞かせる。

年長児さんが作ってきた子ども神輿が輝いている。子どもの自由な発想が生きる意味、生きてきた価値を表している。「遊び」を流動的に創出し、「仲間」の参画も自由に一人一人の子どものリズムやペースで制作に関わってきた。過去と現在が幾重にも織り重ねられて眼前の現象として現れている。そのヒト・モノ・コトの相互作用の一つ一つが生起する瞬間に「子ども時間」があったにちがいない。遊びを通して生きる意味を哲学する子ども達。遊びは子ども達の勲章そのものである。

「あいだのいだちゃんのあいだ」のお話

園長: すぎもと かずひさ (2020年8月31日

「あいだのいだちゃんのあいだ」のお話

 

理事長  すぎもと かずひさ

 

コロナ禍の中で学んだことがあります。青空卒園式に青空入園・進級式の際には、簡略化したにもかかわらず、新たなスタイルでの持ち方に、子どもはもとより多くの保護者の方々から「かえって記念になる」「よかった」などと、肯定的なご意見をもらい嬉しかったこと。何となく申し訳ない気持ちを抱いていたスタッフは本当に救われた気持ちになったのでした。

その後の保育の自粛や参観の中止、年長児の野染め体験の子どものみでの催行、さらには日々の感染拡大防止策へのご協力等々、枚挙にいとまがないほどのご理解とご協力をいただいてきました。今もなお、さらにこれからもコロナ対策を共に行いながら「新たな生活様式」の中での保育の継続的な実施に向けてこれまでにないご理解とご支援をいただきますことは、本当に有り難く、勇気の追い風をいただいているような感があります。

さて、運動会の持ち方についてです。京都府保育協会主催の保育のキャリアアップ研修はこの8月に今年度の研修を開始しました。その皮切りとして「コロナ禍の中での保育の仕方」について、大阪府済生会中津病院. 臨床教育部 部長 安井 良則.先生に一問一答式での研修を行いました。運動会の持ち方についてもお尋ねし、次のような回答をいただきましたので紹介します。

1.      新型コロナウイルス感染症は大人の感染症であること。子どもが罹患してもほとんどの場合無症状、もしくは軽症であり「経過観察」で終わること。また、子どもから子どもへの感染事例は少なく、日常の保育で子ども同士が遊ぶことや運動会を子ども同士で行うことには、さほどリスクを伴わないこと。

2.      大人から子どもへの感染事例はあるので、職員や保護者など、大人からの感染リスクを低減するよう努めること。したがって、保護者が参加する競技や応援の仕方などには留意すること。

以上のことを踏まえ、保護者同伴の参加になる012歳児については、運動会の日に合同で行わず、代わりに通常保育の中で子ども達のみで「運動遊び」として行うことにいたしました。345歳児クラスについては、子どものみで行うことが可能な競技を例年通り、保護者の参観のもと行う予定です。詳細につきましては、その都度、別紙でお知らせいたしますのでご覧ください。

 今年度のテーマは、コロナ禍であらためて学んだ人と人との「あいだ」です。黄檗のTシャツにはつないだ手で空を飛ぶ仲間の真ん中にの花が咲き、三室戸・Hana花のTシャツには子ども達が遊ぶ大きな樹の根をに結ぶデザインが施されています。間にこそ愛があり、間でこそ人は「人間」として育まれていきます。人間の本質に触れる運動会の誕生です。

『 氷遊びの年輪 』のお話

園長: すぎもと かずひさ (2020年7月31日

『 氷遊びの年輪 』のお話

理事長 すぎもと かずひさ

豆腐大の氷がきらめいている。つややかに溶けて何とも魅惑的なフォルムである。その様子をじっと見つめていた0歳児さんが思わず手を出した。触れた途端に「アッ」と驚く。未体験の冷たさだ。手を引っ込める表情が可愛い。眼は氷を捉えたままである。刺激は面白い。冷たさの驚きが、好奇心を呼び覚まし、触りたい欲求を掻き立てる。もう一度タッチ!触っている時間が長い。触って濡れた手のひらを眼の前にして眺めた次の瞬間の「ニカッ」。驚きはもうなく、期待通りの感触を得て満面の笑みだ。1分にもならない時間の中での新たな世界との出会い、豊かな体験であった。

長梅雨の僅かな晴れ間のことである。2歳児さんが氷遊びを楽しんでいた。色とりどりに色づけられた氷は様々な大きさや形をした容器でつくられ、中には子ども達が昨日摘んだ花びらや葉っぱを閉じ込めたものまであった。牛乳パックでつくられた氷は四方の紙を剥がしていくと視界に現れて楽しみを増幅する。プリンカップや製氷皿でつくった氷は子どもの所有欲を満たす。持てるくらいの大きさ、冷たさになってくると一人一人がそれぞれに宝石のように手に持ち、見せ合ったり並べっこを楽しんだりしている。子ども達の眼も氷と呼応するように輝いてくる。氷の向きや角度を動かすたびに新たなきらめきと出会う。氷に透かして見上げる青空と光のハーモニー。1秒、2秒、3秒・・・美しさを堪能する真剣な眼差しに時が止まってみえる。青く色づいた氷が持つ指の体温で溶けて、掲げた手から手首の方へ滴っていることさえ気づかない。

さらに、年齢を重ねると氷遊びは継続的で意味のある遊びに展開していく。乳児さんの頃からの経験から水を冷やすと氷になることを学んでいる子ども達は、絵の具や草木できれいな色ができるたびに氷にしたいという思いを募らせる。10個入りの卵パックの窪みを活用して暖色、寒色のグラデーションを楽しんだり、透明カップに指で渦模様を味わうように混ぜたり、スポイトで落としては沈殿するさまや複数の混色を上下左右から眺め、楽しむ工夫を凝らしたり、氷にするまでの様々な過程を楽しんでいく。楽しんだ分だけの願いと愛着を抱きながら氷の完成を待つ子ども達。

 仲間と一緒に作った大切な色水をこぼさないように冷凍庫まで運ぶ34歳児さん。自分たちの冷凍庫を備え自由に氷づくりを楽しむ年長児さん。初めて氷を触って驚いたあの日。開拓の月日、氷遊びの年輪が美しい。

『 愛は藍より出でて 藍より愛し 』

園長: すぎもと かずひさ (2020年6月30日

『 愛は藍より出でて 藍より愛し 

 

理事長 すぎもと かずひさ

 

「藍の栽培から染料づくり、藍染まで、いのちの循環の体験学習」を年長児さんの教育活動に取り入れてから早や6年が過ぎました。当初は、子ども達が散歩で持ち帰った花や葉っぱを鍋でぐつぐつ煮出し、草木染ごっこを楽しんでいましたが、いろいろな色が欲しくなってきた子ども達。そんなある日、「青が欲しい」との一人のつぶやきから、ワイワイガヤガヤ自然の色図鑑とのにらめっこが始まりました。こうしてたどり着いたのが「藍」でした。ところが、「藍」は簡単に手に入りません。ここから保育者の奮闘が始まります。子どもの願いを実現しようと、インターネットで「藍の種あげます」というサイトを見つけ、種を手に入れ、一から栽培しようというのでした。同じころ、「染めのおっちゃん」こと斎藤洋先生のギャラリーで染太郎さんという方の藍作品展があり、訪れた際に、今日に至るまでお世話・ご指導いただくことになる由良川藍同好会の花城さんご夫妻や宇都宮大学の佐々木和也先生との有難いご縁に恵まれました。

藍の種蒔き、育苗、苗の畑への定植、生育状況及び畑の維持・管理、刈り取り、葉の乾燥、染料のもととなるスクモ作りにおける葉の発酵状態の管理、藍建て、藍液の入った藍甕の攪拌・管理、藍染、種の採取といった一つ一つのプロセスを右も左もわからない素人が行うのですから、大雨が降ったら「ギャー」、元気がないと「ウーン」、染まりが弱いと「ガーン」等々、心配するところと手をかけるところの判断もできないままの一喜一憂が続きました。その都度、前出の先生達へメールを送っては、ご助言いただいたり、足りなくなった苗やスクモをいただいたり、遠路はるばる畑や、スクモ、甕の状態を見に来ていただいたりしてきたのでした。このようにして、何とか今日まで一人一人=すべての子どもが種蒔きに始まる全工程を行い、自ら見守り続けてきた藍液で、世界に一着しかない個性豊かなTシャツを着て巣立っていくことができたのです。

3月、前年度の年長さんから、「藍の種」をもらった年長さん。小さな手のひらに、さらに小さな一粒の種を載せ、見つめた感動の出会いから、コロナ禍の中、それでも、ようやく梅雨の晴れ間の昨日、藍の葉の「一番刈り」を行うことができました。

青々と伸びゆく藍と子ども達の姿に「青は藍より出でて 藍より青し」の故事とその子を思い「手間をかける愛しい日々」を実践する大人の姿を重ね「愛は藍より出でて 藍より愛し」との掛け言葉が重なるように浮かんできます。

 

『  はるかな世界に夢を見る  』のお話

園長: すぎもと かずひさ (2020年5月29日

『  はるかな世界に夢を見る  』のお話

 

理事長 すぎもと かずひさ

 

視界が広がる向こう。数㎝先の空。手を伸ばす。寝返ると景色が変わる。その面白さ。触りたい。届かない。身体を伸ばす。行ってみたい。憧れ、冒険への欲求。そんな思いが全身に漲り、子どもはその心も体も大きく育んでいくのだろう。仕草、動作、活動の一つ一つが、手や足の指の隅々の、頭の先からつま先の部位の一つ一つが全身へと連なって、さらに全霊の気持ちを宿らせて周りのヒト、モノ、コトと関わり、繋がっていく。その世界、雰囲気に魅了され、この後の未来を期待する。

「子ども劇場」の始まり。登場人物になりたい気持ちを隠して、見つかりたい隠れん坊さながらに様子を窺い、彼の視界に入るか入らないかギリギリのところへ寝転んでみる。ライバルは真横の座布団である。ふんわりとしたフォルム。日差しを浴びて魅惑的に埃をきらめかせている。床面すれすれの上と下、あっちやこっち。肌ざわりの固い、柔らかい、ツルツル、ザラザラ、凹凸の触れる場所ごとの感触を味わい尽くすようにそろりそろりと這ってくる。絨毯が参加する。フローリングが参加する。座布団。そして、私の出番。ワクワクが止まらない。

彼からやってきて「くれた」。何よりのプレゼントである。お腹の上で立ち止まる、否、這い止まっている。撫で撫で、擦り擦り、くすぐったい。彼も気持ちがいいのだ。やめる気配がない。この境界の無さ、一体感、一緒の心地よさ。笑いが漏れる。お腹が揺れる。彼も揺れる。こんなふうに私「と」の関係を結んでくれる。幸せな感じ。時間の有難さ。ほんの数分の時間が彼と私を結んでくれた。

外に出る。子どもの景色が広がっている。園庭のそこかしこに魂が踊っている。自由がある。自由である。自由な活動の背景にはゆったりとした時間がある。思い思いに時間を遣い、活動しては、ヒトやモノを結んで「場」を作りつづける子ども達。生き生きとしている。溌溂としている。没頭している。夢中になっている。主語は子ども達である。

「行動」は「時間」を必要とする。「行動」はバラバラに存在するヒトやモノを結び「場」をつくり、「世界」を広げていく。その「世界」をつくり、広げていくプロセスの中で、子ども達は、新たな自己と出会い、気づきを発見し、仲間と関わり、学びを深めていく。子どもの主体的な活動、主体性を育むために、まず必要な自由を保障すること。空間的・物理的な「場」よりもはるかな世界に夢を見る。

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